「鋼牙様、カオル様から手紙が届いております」

 日課である鍛錬を終えようとする鋼牙へゴンザが声をかけた。
 北の管轄へ移動してからというもの、鍛錬は家屋の中で行われる日々が続いている。
外は雪。屋敷の奥にある鍛錬場の空気も凍えるほど冷たい。
 しかし鍛錬を終えた男の身体からは薄く湯気が立ちのぼり、躍動を終えたいま呼気を整え
静かに落ち着いていく。
 鋼牙は「そうか」と執事へ背を向けたまま返事をすると、最後に大きく息を吐き向き直った。
 「リビングにお茶の用意をしております。そこでお読みになられますか?」
 「ああ」
 言葉数少ない主の求めるもの、その一歩先を読むことに初老の執事は長けている。

 差し出す執事の姿も受け取る主の姿も、番犬所からの指令書をやりとりする時のそれである。
しかしそこに込められた気持ちは違うのだろう。
 渡されたペーパーナイフで封を切ると、部屋の空気と少しだけ違う匂いがした。

 他愛のない手紙だった。日本とは違ったイタリアの空気、景色、人すべてに刺激を受けているらしく、
絵を描く意欲が湧くと書いてある。どうやらライバルと呼べる友人もできたようだ。
 良いこともあるが悪いこともあるようで、言葉が不自由だとか住まいがオンボロだとか。
 もっとも、部屋の古さは楽しんでいるふしがあるが。
 鋼牙にはそんなカオルの姿をありありと思い浮かべることができた。夢に向かってまっすぐで、多少の
ことではへこたれない。イタリアでの修行もきっと上手くいくだろう。

 「カオル様はなんと?」
 ゴンザは手紙を読み終えた鋼牙に声をかけた。
 「ふ、相変わらずだ。どこそこの絵が気に入ったのだの飯があわないだのと書いてある。
あいつは絵の修行をしに行ったんじゃなかったのか?」
 呆れたように文句を言うものの、鋼牙の表情はどこかしら明るく穏やかなものになっている。
 「文句のわりにはずいぶんと楽しそうだが」
 そこを悟ったザルバが間髪入れずに口を挟んだ。
 キバとの戦いで鋼牙とのそれまでの記憶をなくしたザルバだが、くだけた性格は以前のままだ。
 「なに、鋼牙がいつもと違った顔をしてるんで、何事かと思っただけだ。いったいどんなやつなんだ?
お前さんにそんな顔をさせるとは」
 「……おまえは少し黙っていろ」
 ふたりのやりとりは相変わらずだ。それをみた執事はなにやら楽しげですらある。
 手紙の書き手は思い知るまい。いつも静かな邸内がにぎやかになってしまった原因を。
屋敷の主の研ぎ澄まされた雰囲気が、たった1通の手紙によって変わってしまったことを。
 それはまるで、冴島邸に新しい風が吹いたかのようだった。


                     ◇◇◇


 ある日帰宅すると日本から手紙が届いていた。差し出し人を見てみると冴島とある。鋼牙からだ。
 もとより返事を期待していなかっただけに驚きは大きい。「あの」冴島鋼牙が手紙を書く姿を、
わたしは想像できなかったからだ。そして驚きと同時に彼の言葉を聞けることが嬉しくなった。
 慌てて部屋へ駆け込むと、古びた床がギシギシと音をたてる。鞄をおろすのももどかしく封を切り、
どきどきしながら手紙を開く。
 けれども中をひらいて目に飛び込んだものは、「わたくしが代筆させていただきます」とのゴンザさんの
断りの一文だった。
 「なんだ、ゴンザさんからじゃない」
 よくよく考えてみれば予想できないことではなかったのだ。けれども期待していなかった返事が届いて
舞い上がっていたぶん、落胆も大きくなった。
 「手紙の返事くらい自分で書きなさいよ。もー」
 気持ちが萎んで力も抜ける。手紙を持ったまま仰向けにベッドに身を投げ出し読み始める。

 私が送った手紙と似たようなもので、北の管轄での生活が書いてある。冬は雪深いところで鋼牙も
最初はとまどったらしい。しかしすぐに慣れたとか。あの身体能力を考えると納得できる。
 特別これという内容ではなないものの、ゴンザさんの心遣いが感じられて嬉しくなった。ゴンザさんが
いなかったとしたら、手紙にあることすら知ることができなかっただろうから。
 手紙を読み終えてしまうのが惜しい。もっと読んでいたいと、もっと知りたいと思ってしまう。
だから終わりの一文を読んだとき、少しだけ寂しくなった。
 返事をもらえただけでもラッキーなのに、それ以上を求めてしまう。贅沢だな、と自分でも思う。
イタリアへ留学をすると、自分で決めた選択を後悔はしていないけど……ため息ひとつ。
 読み終えた手紙を下ろそうとしたとき、もう一枚先があることに気づいた。文章はきれいに終わっているのに
なんだろうと便箋をめくると――


 それまでとは明らかに違った字体の短い一文。 

 たったそれだけ。


 それだけなのに顔がにやけてくるのがわかる。
 わたし馬鹿みたいだ。でも、馬鹿みたいになれるこの手紙が嬉しくて嬉しくて、文面から目が離せない。
 ああ、口元が緩んでしまう。さっきまでだって楽しく手紙を読んでいたのに、それ以上の大きな感情が
押し寄せてくる。短い1文だけで、なんだってこんなに笑顔になってしまうんだろう。
 手紙を書く姿は想像できないと思っていたけれど、この1文が変えてしまった。
 わたしを笑顔にさせるこの文章を、あいつはいつもの仏頂面で、いつもと変わりなくペンを走らせたんだろう。
 いつもそうだ。わたしを守ってくれたあの時も振り回されたのはわたしで、どきどきしたのもわたし。
言葉数は少ないかわりに、ちょっとした行動に驚かされてばかりだった。少し悔しい。
 だからこの留学ではあいつが驚くくらい、成長してみせるって決めたんだ。

 もう一度手紙に目を落とす。何度も目でなぞる、わたしの気持ちを大きく動かす1文。だけどそっけなさは
相変わらずだ。そんなところがあいつらしくて……
 「ほんと、愛想のないやつ」
 サイドテーブル上の写真に文句を言って立ち上がる。文句を言っているはずなのにどこか楽しい。
 ああ、手紙を読んで元気が出てしまった。この勢いをキャンパスへとぶつけよう。題材はもう決まってる。
 イタリアでの住まいは兼アトリエで、日本にいたときと同じように室内は絵を描く道具で雑然としている。
人を呼べる部屋ではないけれど、こうやって絵を描きたいと思ったらすぐに描き始められるのがいいところ。
 イーゼルの前で深呼吸。描きたいものをイメージ、焦点を明確にすると自然と腕が持ち上がる。

 わたしは夢を叶える。つまずいても進んでいける。今は自分の足だけでなく、背中を押してくれる力があるからだ。
あいつが、わたしの絵をもっと見たいと言ってくれたから。
 迷いなくキャンパスの上へ筆を走らせ色をのせ、えがく。

 凍てつく空気の中雪原に立つ、気高くも雄々しい黄金騎士の姿を。




 あとがき